見極めというもの

生きていくこと

息子よ

引き続き、いまの世界では新型のウイルスが猛威を奮っている。すでに述べたとおり、妊婦や胎児への影響が十分に分かっていないから、君が無事に生まれてこれるよう、父さんも母さんも十分に留意して日々を過ごしている。

正直に言えば、父さんは非常に不安でしかたない。十分に気を付けていても、どこかに付着したウイルスで不幸にも感染するかもしれない。苦労して、苦労して、ようやく君に会えるというこの時に、仮にウイルスに感染して何事かあれば、不可抗力では済まされない。とにかく、僕たちは最低限の買い物以外では外には出ず、極力、人との接触を断って君の命を無事にこの世に迎え入れたいと思っている。

さて、今回は、君にある言葉を紹介したい。アメリカの神学者、ラインホールド・ニーバーという人がある礼拝の説教でなされた祈りだ。

 ”神よ、変えることができるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ、変えることのできないものについては、それを受け入れる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと変えることのできないものとを識別する知恵を与えたまえ

この祈りの言葉は、その後、広く多くの人々を救ってきた。知恵・勇気・冷静さという人間の素養がなぜ必要なのか、気付きを与えてくれる言葉だし、人間が賢明に生きていくためのエッセンスがこの言葉には凝縮されていると父さんは思う。

生きていくなかで、自分が影響力を行使できることとそうでないことがある。そして、その影響力を最大限に大きくしていく努力(出世で権限を得るというのは分かりやすいね)が重要である一方で、時に、どうしようもないことをいつまでも嘆き、立ち止まっている人々も多い。

このニーバーの祈りにあるとおり、大事なことは人生の一つ一つの局面で、自分が何をなしえるのかをよく見極め、その努力に注力することだ。他に目をくれたり嘆いて天を仰いでいるだけではただの時間の浪費だ。それこそ、”祈る”くらいなら、その合わせている手で自分にできる努力をしている方がずっとマシなんだ。

競争のルールが良くないなら、そのルールを変える行動をすべきだし、そうしないのなら、所与のルールで勝つことだけを考えるんだ。間違っても勝負の最中にルールの理不尽さに気をとられてはいけない。勝負が終わった後(できれば勝った後が説得力がある)に、問題点について討議すべきだ。

これは、読んでいる君にとっては、至極当たり前のことに思えるかもしれない。ただ、実際にはそう簡単に実行できることでもなく、十分な習慣づけが必要であり、それができるならば、君はきっとひとかどの人物になることができるだろう。

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